明治元年創業 米子の老舗企業「人形のウエダ」が神奈川移転 毛氈販売へ転換

毛氈(人形の下に敷いてある赤い布が「毛氈」)
毛氈(人形の下に敷いてある赤い布が「毛氈」)

鳥取県米子市発祥の企業「人形のウエダ」(以下 ウエダ)が2024年9月4日、神奈川県に移転した。これまで主力商品としてきた人形はインターネット販売のみとし、節句用毛氈(もうせん)を主力商品に転換する。毛氈とは、ひな人形や五月人形の下に敷く布のことだ。純国産の本格的な毛氈としては初の挑戦となる。「敷折織(しきおりおり)」というブランドで展開していく。

かつて毛氈は主な販売品ではなく、人形の付属品としての役割が中心だった。デザインは一種類しかなく、素材も粗末なものが使われていた。外国産のものは品質が低く、純日本産のものは無かった。

外国製の毛氈は縫製がよくなかった。ウエダの毛氈は職人が1枚1枚心を込めて縫い上げる。インターネットでは「縫製が良い」と評判だ。縫製は、かつて革鞄(かわかばん)の会社で鞄を作っていた職人が行っている。

「敷折織」の縫製を行う職人

ウエダが制作する毛氈は、デザインが多様であることにも特徴がある。ウエダが毛氈を販売するまで、色は赤か緑しかなかった。赤は魔除け、緑は成長を願う色とされてきた。ウエダはその固定観念を打ち破る。顧客のニーズに応え、様々な色やデザインの毛氈を商品構成に加える。ピンクのほか、紺や黒などインテリアに合わせやすい洗練された色も取り揃える。

ウエダは2011年11月ごろから毛氈の制作を始める。最初、ひな人形を買った人への特典として無料で進呈した。販売を望む客が多いことから、商品として展開するようになった。2013年4月には東京の明治記念館に展示される「五月人形」の毛氈として採用された。明治記念館は最初、都内の業者に制作を依頼した。どの会社からも「できない」と言われたため、ウエダが抜擢された。

明治記念館から依頼を受けてから納品まで時間がない。ひな壇を直接見に行くことはできない。自分たちで寸法を測りに行く時間的余裕もない。明治記念館から渡されたひな壇の図面だけが頼りだ。間に合わなかったら現地で作り直す覚悟で引き受けた。毛氈の図面作成から裁断、縫製まで10日間で行った。徹夜続きだった。

明治記念館に展示された五月人形(人形の下に敷かれた緑色の布が「人形のウエダ」が制作した「毛氈」)=2013年4月

明治記念館で採用されたことなどもあり、その後、売上は右肩上がりだ。宣伝広報は、ほとんど行っていない。どこかの地域で1度注文があると、同じ地域からの注文が増える。人形のウエダ代表取締役の上田直樹さんは「口コミで評判になっているのではないか」と分析する。大手インターネット販売サイトでも好評価を受けて売れ続けている。あまりの評判にコピー商品が出回ったほどだ。

毛氈として始まった「敷折織」は、今後、様々な使用目的での展開が考えられる。写真撮影時に人物の下に置く敷物や、和ダンスの下に置く敷物などだ。民芸品の敷物にも使える。在沖縄米軍基地所属のアメリカ人が、この毛氈を気に入って買っていったことがある。日本土産のフィギュアを置く敷物に使うのだという。一緒にいた女性は「他の土産物店には無い、良い土産ができた」と喜んでいた。

アメリカ人が買っていたのと同タイプの「紺色」毛氈(かつて毛氈の色は、赤か緑しかなかった)

米子は昔から商業の街として栄えてきた。人形のウエダは明治元年に油の販売業として創業されている。現社長の直樹さんで6代目となる。明治から令和まで時代が進む中、和服の仕立・人形販売・玩具販売など主力商品を変えて激動の時代を生き抜いてきた。

上田さんは会社が神奈川に移転するとは考えていない。首都圏への進出と考える。さらに首都圏を足がかりとして、インターネットを活用した世界進出をめざす。

米子の商人魂は、日本唯一の商品「オリジナル毛氈」により神奈川で継承され続ける。

※「人形のウエダ」の「敷折織」は登録商標です。

インタビューを受ける「人形のウエダ」代表取締役上田直樹さん