甲子園球場の整備員から料理人へ転身 牛タンの居酒屋「焼味尽 とくちゃん」(後編)

山本耕太郎さんが高校3年生の時に持ち帰った「甲子園の土」(今でも自宅に飾っている)
山本耕太郎さんが高校3年生の時に持ち帰った「甲子園の土」(今でも自宅に飾っている)

(前編からつづく)

大阪梅田にある牛タンの居酒屋「焼味尽(やみつき)とくちゃん」は、鳥取県出身の山本耕太郎さんが店長として料理人を務めている。かつて、甲子園のグラウンドキーパーとして球場整備の仕事をしていた。

高校に進学する時、野球選手としての甲子園出場を断念した山本さん。球場の整備をする阪神園芸に「雇ってほしい」と、高校の3年間に渡って熱意を伝え続けた。グラウンドキーパーとなって甲子園の土を踏むためだった。

その結果、高校3年の夏休み期間中だけアルバイトとしてグラウンドキーパーの仕事をすることになった。倉庫に簡易ベッドを作って住み込みで働いた。

山本さんの最終的な夢は、正社員として阪神園芸に就職することであった。アルバイトの最終日、正社員として働きたいと熱意を伝えた。

阪神園芸には山本さんを正社員にする採用枠が無かったが、例外的に枠を1人増やすこととした。アルバイトとしての働きが認められたのだ。山本さんの夢が叶った瞬間だった。

そこにいるのが信じられなかった。今までテレビで見ていた世界だ。自分が関わっているのが、やりがいだった。

グラウンドキーパーとして甲子園球場の整備をする山本耕太郎さん
グラウンドキーパーとして甲子園球場の整備をする山本耕太郎さん

しかし数年後、山本さんは阪神園芸を退社することになる。甲子園のグラウンドキーパーは好きな仕事で楽しかった。なぜ辞めたのか今でも分からない。

退社した山本さんは、新たな人生として飲食業に興味を持つこととなる。地方で質素な食生活により育ったことで、外食産業に対する憧れがあった。

まずは弁当配達などのアルバイトを始めた。「焼味尽とくちゃん」の社長となる人物とは、この時期に知り合った。「一緒に店をやろう」と誘われた。

社長夫婦と共に創業したのが1997年だ。そして2002年、3号店として梅田店を開店した。山本さんは店長や系列店のスーパーバイザーとしても「焼味尽とくちゃん」を切り盛りしてきた。

名物の「本家ぶつぎり牛たん焼」は、山本さんが試行錯誤の末にだどり着いた唯一無二の味だ。

厳選した牛タンを、ぶつ切りにして塩と黒胡椒で下味をつける。3日間寝かせて熟成させることにより余分な血を抜き、塩味を染み込ませて旨味を引き出している。

肉厚でも食べやすくジューシーな味わいになる工夫が、他にもなされている。

「焼味尽とくちゃん」の「本家ぶつぎり牛たん焼」

「グラウンドキーパーと料理人は、職人の世界という点では通じるものがある」と山本さんは話す。人のための仕事で、きれいに整えるという点が自分に合っているという。

鳥取の山奥で育ち、子供の頃は、もっと広い世界を見たいと思っていた。

歳を重ねてもチャレンジ精神を忘れない。飲食業を始めてからも「夢や目標を諦めてはいけない」という気持ちを持ち続けてきた。

牛タンといえば「お食事処」として提供する店がほとんどだ。居酒屋として牛タンを提供する業態はあまり多くない。類似の店はあっても「焼味尽とくちゃん」が元祖だ、という自負が山本さんにはある。

今の目標は、この唯一無二の味と業態を長く継続して、さらにブランド力を高めて行くことだ。

開店の準備をする「焼味尽とくちゃん」の店長、山本耕太郎さん
開店の準備をする「焼味尽とくちゃん」の店長、山本耕太郎さん

山本さんは甲子園への想いを語る。

「今思えば地方から来た見ず知らずの若者を甲子園の中に泊めて頂き、雇って頂いた。甲子園球場や、阪神園芸の方々には感謝の気持ちでいっぱいです」

高校3年の夏、甲子園でアルバイトを終えて帰郷する時、阪神園芸から「甲子園の土」をもらった。その土は、今でも山本さんの支えとなっている。

2001年ごろから日本でも始まった狂牛病や、近年のコロナ禍などは飲食業界に大打撃を与えた。山本さんは創業以来、それらの様々な危機を乗り越えてきた。その忍耐力は甲子園を夢みて挑戦し続けた、高校生の時に培われたものだ。

選手としての甲子園出場を断念しても、甲子園への夢が消えることはなかった。簡易ベッドで倉庫に寝泊まりしてでも甲子園の土を踏みたいと願った3年間。そこには、山本さんの料理人としての原点がある。

※ 山本耕太郎さんが甲子園球場で住み込みのアルバイトをしたのは、今から数十年前です。現在とは時代背景が異なります。

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