
大阪梅田駅の近く「新梅田食道街」に、牛タンの居酒屋「焼味尽 とくちゃん」(やみつきとくちゃん)がある。店長で料理人の山本耕太郎(やまもと こうたろう)さんは鳥取県琴浦町出身だ。山本さんは、甲子園球場の「グラウンドキーパー(整備員)」から料理人に転身した経歴を持つ。
10歳で野球を始めた山本さんは、甲子園出場を夢見る野球少年だった。甲子園の土を踏むため野球の強豪、倉吉北高校に進学しようと考えていた。当時、倉吉北には関西などから有力選手が集まっていた。「レギュラーになれない」と、親にも教師にも反対された。
倉吉北への進学を断念した山本さんは、硬式野球部の無い高校へ進学することとなる。甲子園の土を踏む夢は叶わないのか。
硬式野球部が無くても、甲子園への憧れが消えることは無かった。

グラウンド整備の仕事をするグラウンドキーパーになれば甲子園の土が踏める。そう考えた山本さんは、甲子園球場のグラウンドキーパーになる方法を探った。
甲子園球場の整備は「阪神園芸株式会社」(以下 阪神園芸)が行っている。高校1年生の夏、甲子園に高校野球を見に行った。親にも言わずに阪神園芸がどこにあるのか探し廻った。
阪神園芸を見つけた山本さんは、飛び込みで事務所を訪問し、グラウンドキーパーになりたいと熱意を伝えた。対応した事務員には相手にされず、門前払い同様で鳥取に帰ることとなった。
山本さんは、あきらめない。
高校2年生の夏、再び阪神園芸に行き熱意を伝えた。偶然、1年前と同じ事務員が対応した。2年続けてやって来た山本さんの意気に感じたのか、事務員が総務部の人を紹介してくれた。
「泥だらけになる。辞める人が多い」
今から考えると総務部の人は、あきらめさせるようなことばかり言っていた。
しかし、1年前に門前払いされていた山本さんは、名刺をもらったことで舞い上がることとなる。高校3年生の春になったら、もう一度直談判しようと計画した。

そんな折、兵庫県淡路島付近を震源とするマグニチュード7.3の地震が甲子園を襲う。
阪神大震災だった。
高速道路が横倒しになった映像が生々しくテレビに映った。直談判しようと考えたが、この時期では迷惑がかかると思い断念した。
そして最後の夏に賭けることになる。
子供の頃から甲子園を夢見た「高校球児」にとって、3年の夏は最後のチャンスだ。阪神園芸に3度目の交渉を行った。
「アルバイトでもいいのでグラウンドキーパーをやらせてほしい」
「アルバイトは間に合っている。それに、どこに泊まるの?」
アルバイトは全員、近隣から通勤している。鳥取から通えるはずはなかった。またしても断られたが山本さんは、あきらめない。阪神園芸以外の就職活動は一切行わなかった。
今回が無理なら、何か甲子園で働ける仕事を探して阪神園芸に入れるチャンスを待つ。スタンドの清掃員、売店の販売員、何でもやるつもりだった。
総務部の人に断られた1週間後、整備の部署から電話がかかって来る。
「倉庫に簡易ベッドで生活できるなら、来てみるか?」
山本さんの熱意が阪神園芸を動かしたのだ。
阪神タイガースの倉庫に急ごしらえのベッドを作り、夏休みの1か月間だけ住み込みでアルバイトをすることになった。阪神園芸としては、異例のことだった。山本さんは電話の翌日、甲子園に向かっていた。
この年、夏の甲子園には倉吉東高校が鳥取県代表として出場している。メンバーの中には山本さんが小中学校で一緒に野球をやった同級生たちがいた。グラウンドキーパーとして甲子園に来た山本さんは、選手として出場した同級生と再会する。同じ夏、仲間と共に甲子園の土を踏んだのだった。
(後編へ、つづく)
※ 山本耕太郎さんが甲子園球場で住み込みのアルバイトをしたのは、今から数十年前です。現在とは時代背景が異なります。

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