埼玉県在住の女子プロゴルファー、金宮みかどさんがケガからの復帰へ向けてトレーニングに励んでいる。金宮さんは鳥取県米子市ゆかりのプロだ。埼玉県出身の金宮さんは2018年秋に米子市へ移住した。2024年4月に拠点を埼玉に戻すまで、同市を拠点に活動していた。約5年半の間、米子に住んでいたことになる。
2024年1月、不運に巻き込まれて左手の指を骨折する。4か月間の療養を経て5月からトレーニングを再開したところだ。
金宮さんは埼玉県生まれ。10歳の時に、ゴルフが好きだった父の影響でゴルフを始める。ゴルフの強豪、埼玉栄高校を卒業し2009年8月にプロテストに合格した。
プロテストには合格したが、思うような成績が残せずに悩む日々が続いた金宮さん。あることがきっかけで米子市へ移住することになる。
きっかけとなったのは、米子に本社を置く企業のゴルフコンペに、ゲストとして呼ばれたことだった。このコンペで米子を訪れた時、一緒にゲスト参加した女子プロから同市在住の男子プロ、石川裕貴さんを紹介される。
石川さんは、後に中四国オープンゴルフ選手権で優勝することになる実力派だ。石川さんは「米子に来て練習したらどうか」と金宮さんに提案した。試合に出場することができず悩んでいた金宮さんは石川さんの指導を受けるために、米子と埼玉を行き来するようになる。
何度か米子に通ううち、ゲスト参加したゴルフコンペの主催企業が金宮さんを支援すると申し出た。こうして金宮さんは、米子に移住してゴルフに専念する決意をすることになる。
米子は金宮さんにとって最適な場所だった。近隣にあるゴルフコースは石川さんの紹介で、好きなだけ練習していいとコースを使わせてくれる。市内のゴルフ練習場も入場料を免除してくれた。
米子にはゴルフを好きな人が多い。家族と離れて暮らす金宮さんに、地域の人は温かかった。
中古車販売会社の社長は無償で自動車を貸与してくれた。新聞店の店主は「お腹へってないか?」と連絡をくれて、食事をごちそうしてくれる。
居酒屋の店主は正規のメニューはもちろん、普段出さない特別メニューもごちそうしてくれた。米子に知り合いも家族もいない金宮さんにとって、この居酒屋店主は父とも思える存在になっていく。
野球経験のある洋服店の店主は、いつも金宮さんのトレーニングにつきあってくれた。みんなが「おなかすいたらいつでもおいで」と言って自宅に招待してくれる。
練習環境が整い、地域の人たちの精神的な支えがある。石川さんの指導をいつでも受けることができる。これだけの環境がそろったことで、金宮さんのゴルフは急速に向上していくことになる。
プロテストに合格してから米子に来るまでの9年間、金宮さんは一度も優勝をしたことがなかった。米子に移住して2年目には非公式の大会ながら、初優勝を経験する。同市を拠点にした5年半の間に、2回の優勝を達成した。
QTファイナルでは過去最高の順位になった。QTファイナルは公式戦が行われるレギュラーツアーへの出場権をかけた試合だ。
ある時期、金宮さんは遠征続きで米子に帰ることができなくなったことがある。時期を同じくして成績が低迷した。
米子の人たちは「米子に帰って来ないから成績が落ちるんだ」と冗談を飛ばした。金宮さんは「米子に帰っていないことが、ほんとうに成績低迷の原因だった」と真剣に分析する。練習環境の整った米子にいると、自然と練習量が多くなる。家族とも思える地域の人たちに支えられ、精神的にも安定する。
スポンサー企業との契約が終了して拠点を埼玉に戻すとき、お世話になった人たち1人1人に会ってきた。米子の人たちは「今度いつ帰ってくるの?」と遠くに離れるという感覚がない。
「待っていてくれることがうれしい。今でも、いつ米子に帰ろうかと考えている自分がいる。ずっとつながっていそうな気がする」と金宮さん。
米子で暮らした5年半の間に、金宮さんが経験したことは大きい。移住するまで実家から離れて暮らしたことがなかった。「米子に行かなかったらゴルフは辞めていたかもしれない」と金宮さんは当時を振り返る。思いとどまったのは米子の人たちのおかげだ。
金宮さんはケガからの復帰後、レギュラーツアーでの優勝をめざしていく。レギュラーツアーは、これまで金宮さんが優勝した非公式競技とは違う。女子プロゴルフの公式戦が年間を通じて開催される。全国放送のテレビ中継もある。
「優勝して米子のみんなに喜んでもらいたい。この子が米子にいたのだと思ってもらいたい。自分たちの街で育ったプロが優勝したと、周りの人に自慢してほしい」
金宮さんは、そう夢を語る。
米子に住むまでは、すぐに怒って投げやりになる自分がいた。そんな自分を、みんなが叱ってくれた。そして、その何倍もの愛情をもらった。最終的に人との関わり方が変わった。
取材の最後に、米子への想いを聞いた。金宮さんはしばらく考えて、ひと言だけ発した。
「好きすぎて言葉に表せない…」
その短いひと言には、米子で暮らした5年半への想いが凝縮されていた。