
プロの初舞台は2022年9月だった。主人公の幼少期を演じた。不老不死になる薬を求めて旅する少女の役だ。東京都や三重県で15回の公演を行った。
共演者には、映画やテレビでも知られる八嶋智人(やしま・のりと)さんがいた。ほかの出演者も経験豊富で、全員うますぎて圧倒された。負けないように食らいつくだけで必死だった。
島根県出身の赤名萌(あかな・もえ)さんは、アニメが好きな15歳だった。アニメを原作とする演劇を見た。ファンタジーを現実で表現するとき、こんなやり方があるのかと驚いた。手を使わずに足だけで木を登るようすを、トランポリンで表現していた。
演劇は映画の撮影と違ってやり直しができない。一発勝負のために稽古を重ねる。いちどきりの2時間のために労力をかけた作品が、素敵だとおもった。
高校には演劇部がなく、放送部があった。高校の演劇で、いくつも賞を取った先生が放送部の顧問だった。赤名さんは仲間とともに放送部の中に演劇部門を立ち上げた。2年生になると放送部を「演劇放送部」と改称した。
高校生で初めて本番の舞台に立ったとき、すごく緊張した。いつのまにか演じるのに夢中になっていた。ラストシーンの照明を浴びたとき、とても幸せな気持ちになった。
近くの市では、子どもから大人まで出演する市民参加型の演劇公演が、毎年の恒例として行われていた。高校の演劇放送部で活動するかたわら、参加して演技の腕を磨いた。

高校の部活動に演劇部門を設立して2年目には、演劇で全国大会に出場した。いろいろな高校の作品を見て、すべてが際立っているとおもった。同じような作品は1つもない。まったく違うアプローチで舞台をつくれるのだと感動した。
子供のころから芸能に関わりたいとおもっていた。人の記憶に残る人生を送りたい。
高校卒業後の進路を決めるとき、自分の好きなことを仕事にしたいと考えて、プロの役者になることを決めた。
プロになるために、演劇専攻のある短期大学に進んだ。俳優をめざす人が選ぶ学科だった。こんなにできる同年代がいるのかと刺激になった。役者をやりながら小道具の制作も担当する。役者とスタッフを兼ねて、自分たちで舞台を作り上げた。
短大では2年生から専攻が分かれる。短大に入るまでは、芝居だけをやってきた。歌とダンスをやったことがなく、ミュージカルの経験がない。在学中にやっておこうとミュージカル専攻を選んだ。
周りはミュージカルの経験が豊富な仲間ばかりだ。よい役がもらえなくて悔しいおもいをした。

主人公マクベスに予言をし、主人公を破滅に導いていく3人の魔女のうちの1人を演じた。
短大を卒業する直前に舞台のオーディションに受かって、プロの役者としてスタートラインに立った。
子どものころを振り返ると自己中心的だったとおもう。演劇を始めるまでは自分を客観的に見ることができなかった。
演劇をやってきたことで、自分を客観視する意識が身についた。自分がどうなりたいかではなく、どういうキャラクターに見えるかを意識しながら役作りをするようになった。
客観視する意識を持つことで、私生活でも自分に何が足りないか気づくようになった。
短大でミュージカルを専攻したが、最初は歌うことに対して強いコンプレックスがあった。芝居は問題ないが、人前で歌うと声が震えてしまう。裏方のほうが向いているのではないかとおもうことが何度もあった。
ステージシンガーやカラオケバーのアルバイトをして、歌わないといけない状況を無理やり作って慣れさせた。おかげで歌も克服できるようになってきた。

高校生のときは役を演じようとおもってやっていた。演じているように見える時点でリアルではない。演じていないように見える、ひたすら生きているように見せるのがプロだ。
楽しいところだけ満喫する趣味とは違い、楽しいこともつらいことも受け入れる覚悟があったからプロをめざした。つらいことがあったとしても、自分の中で極めたいとおもえるものが芝居だ。
出演した舞台は学びが多い。やるたびにもっと出たいという想いが強くなる。
短大を卒業して、順調に出演を重ねてきた。時代劇も経験した。舞台の出演や稽古がないときは、ボイストレーニングやダンススクールにも通う。
いまは舞台をやっているが、映像演技のほうが向いているといわれたこともある。
「簡単に叶えられる夢ではないと分かったうえで、飛び込んだ世界です。どんなに困難があっても、ちょっとやそっとじゃ諦めるつもりはないです」
役者人生は始まったばかりだ。
東京芸術劇場のような大きな舞台に立ちたい。「職業は役者です」と胸を張って言えるようになりたい。
さまざまな可能性を秘め、赤名さんは夢に向かう決意を語った。

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