
2025年5月、アメリカで棒高跳びの日本代表をめざす選手がいる。坂口ジャスミン紫苑(しおん)さんだ。坂口さんは、ルイジアナ大学ラファイエット校に在学している。勉学に励むかたわら、アスリートとして活躍する。
坂口さんは鳥取県の私立倉吉北高校出身。2021年6月、山口県の「維新みらいふスタジアム」で中国高校総体が開催された。陸上の棒高跳びで出場した坂口さんは、このとき大会新記録で優勝をしている。坂口さんは大会期間中に左右の大腿部を痛めていた。痛みを乗り越えて勝ち取った栄冠だった。
坂口さんが陸上を始めたのは高校に入学した時だった。中国高校総体で優勝した時、棒高跳びを始めてから、まだ2年あまりしか経っていない。
高校卒業の翌年2022年に出場した「日本選手権U20」では、自己ベストの記録で4位に入賞している。短期間で日本の4位まで駆け上がったのだ。
坂口さんはニュージーランド生まれ。オーストラリア人の父と日本人の母との間に生まれた。小さいころは野球とソフトボールに熱中した。新体操もやるなど、スポーツが大好きな子供だった。
初めて日本に来たのは4歳の時だ。しばらくの間、日本とオーストラリアを行ったり来たりする暮らしだった。中学3年の終わりごろに母の出身地、鳥取県に住むこととなった。
坂口さんは、それまで陸上の経験が無かった。中学3年生の時、学校で運動会が開催された。この時、坂口さんの走りを見た倉吉北高の校長が声をかける。
「倉吉北に来て陸上をやらないか」
陸上のハードル競技をやっていた校長の目に留まったのだった。校長以外にも多くの人の尽力があり、坂口さんは倉吉北高に入学することとなった。

高校入学後、陸上漬けの日々が始まる。他の選手が小中学生のころからやる練習を、3年間で凝縮して行った。遊びに行くこともほとんどない。休みなく練習していた。
アメリカでこの話しをすると「あなた、人生無かったね」と言われる。しかし坂口さんにとっては、そのとき陸上が人生のすべてだった。それで良かったと思う。
倉吉北高校に入学した当時は辛い日々だった。オーストラリアの学校生活と日本の学校生活では、共通点が無いといっていいぐらい異なる。日本語にも、まだ不慣れだった。違いに慣れるまで苦労の連続だった。
辛い学校生活を支えたのが陸上だった。陸上が好きすぎて、厳しい練習が苦にならなかった。授業が終わる午後4時になるのが楽しみだった。
陸上が無かったら高校をやめていたかもしれない。陸上のおかげで3年間を乗り越えることができた。
坂口さんに棒高跳びを教えたのは中原俊夫さんという指導者だった。鳥取県で、まだ棒高跳びがメジャーではなかった時代から、県の棒高跳びを作り上げてきた人物だ。
自分のためではなく、選手のために人生をかけて棒高跳びに情熱を注ぐような人だった。坂口さんが厳しい練習に耐えて今があるのは、中原さんのおかげだ。

坂口さんは高校卒業後、アメリカの大学へ進学することとなる。最初は、「クラウド・カウンティ・コミュニティ・カレッジ」に入学した。カンザス州にある短期大学だ。
坂口さんは、もともと陸上だけではなく勉強も好きな生徒だった。
アメリカの大学には決められたルールがある。学業の成績が基準を下回ると、陸上の試合に出場できなくなる。指導者からも、スポーツより勉強のほうが優先と言われることが多い。
勉強もやりたかった坂口さんは、自然な流れでアメリカの大学へ進むことを決めていた。
クラウド・カウンティ・コミュニティ・カレッジ1年生の時に、短大の全米大会で優勝した。そのおかげで、ルイジアナ大学ラファイエット校にスカウトされて編入することとなった。

ルイジアナ大学ラファイエット校は「D1(ディビジョンワン)」の学校だ。「D1」は全米の大学陸上トップリーグだ。世界中から、オリンピック選手や各国を代表する選手が集まる。最高峰の陸上連盟といっていい。ここで陸上をやって、ますます成長していると感じる。
高校の時は休みが無く厳しい練習だったが、それを乗り越えてきたので大学での練習が楽に感じる。練習しないと物足りないとすら思う。
短大時代は正規の練習以外に、こっそり自主トレーニングをやっていた。坂口さんの陸上は、練習がすべての土台になっている。
高校3年生のインターハイでは、ケガで練習ができず自信が持てないまま出場した。結果、不本意な成績に終わった。
十分な練習ができるようになった翌年は「日本選手権U20」に自信を持って臨み、自己ベストで全国4位に駆け上がった。

坂口さんの夢は、日本代表として海外の試合に出ることだ。スポーツをする上で頂点をめざしたいという気持ちは当然のことだと思う。どれだけ上に行けるか、どんどん挑戦したくなる。
なぜ日本代表をめざすのか、坂口さんは話す。
「日本で棒高跳びを教わったので、日本の代表になりたいです。高校1年生の時から棒高跳びを教えてもらった中原先生への恩返しでもあります」
子供のころからオーストラリアで積み上げてきたものが、日本に移住して一気に無くなってしまった。文化や言語の違いに苦労し、何も無かった自分を作りあげてくれたのが中原さんだった。
坂口さんは、中原さんのためにも陸上を頑張りたいと思う。自分の努力で恩返しができたらと、いつも考えながら練習している。
母の故郷、鳥取で棒高跳びに出会い、棒高跳びのおかげで辛い日々を乗り越えてきた。
今、遠く離れたアメリカの地で日本代表をめざす。その原動力は、鳥取の師への恩返しにあった。