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原爆に散った広島市長 粟屋仙吉の青春時代④〈卒業編〉

2025 8/02
全国/世界 鳥取(Tottori)
2025年8月2日
山陰プレス編集
粟屋仙吉が米子中学校に在学したころの米子駅(明治末期)【米子市立山陰歴史館所蔵】
写真中央で横長に広がる建物群が米子駅。米子中学校や鳥取市は写真の右方向(東方向)にある。
仙吉の自宅は米子駅のすぐ近くにあったと思われる。
粟屋仙吉が米子中学校に在学したころの米子駅(明治末期)【米子市立山陰歴史館所蔵】
写真中央で横長に広がる建物群が米子駅。米子中学校や鳥取市は写真の右方向(東方向)にある。
仙吉の自宅は米子駅のすぐ近くにあったと思われる。

広島に原爆が投下されたとき、広島市長は鳥取県出身の粟屋仙吉(あわや せんきち)であった。仙吉が鳥取県立米子中学校(現在の米子東高校)の5年生だったとき、米子中学校を揺るがす大事件が起きた。1911年(明治44年)12月のことだ。

生徒が敬愛する林重浩(はやし しげひろ)校長が、鳥取中学校(現在の鳥取西高校)に転任することが決まった。

当時の鳥取中学校では、生徒による教員排斥(はいせき)のためのストライキが横行し、生徒間でも暴力の嵐が吹き荒れていた。校長が何人も辞職した。北海道から高額報酬で優秀な校長を呼び寄せたが、混乱は収まらない。荒廃した鳥取中学校を立て直すために、鳥取県知事から指名されたのが林であった。

林は厳しくも情に厚く、部活動に理解のある校長だった。自分たちが慕う林がいなくなることは、米子中学校の生徒にとって一大事だ。

生徒により、転任を撤回させるための運動が始まった。この運動のリーダーとなったのが粟屋仙吉であった。

当時、米子中学校には全校で約500名の生徒がいた。

まずは、5年生全員が連名で鳥取県知事に上申書を送った。町の有力者に後援を依頼し、全校生徒は学校に集結した。ここで、「校長留任運動の開始」が決議された。

明治末期、粟屋仙吉が在学したころの米子中学校【写真提供:鳥取県立公文書館】
(この敷地内に全校生徒が集結して「留任運動開始決議」が行われた)
明治末期、粟屋仙吉が在学したころの米子中学校【写真提供:鳥取県立公文書館】
(この敷地内に全校生徒が集結して「留任運動開始決議」が行われた)

決議後の夜、杉原徳行ら代表者が仙吉の家へ向かう。仙吉と合流し、10時ごろに米子駅を出発する列車に乗った。鳥取県知事の岡喜七郎(おか きしちろう)に、校長留任の直談判を行うためだった。行先は岡のいる知事官邸(かんてい)だ。

米子から知事官邸のある鳥取市までは、90キロメートルほど離れている。鳥取県では山陰線の鳥取米子間が開通して間(ま)もない。急行電車など無い時代だ。各駅停車の蒸気機関車に乗ったと思われる。官邸に着いたのは深夜0時だった。

官邸では、忘年会を兼ねた歌の会が行われていた。深夜だったため、帰宅する参加者も、ちらほら見られた。鳥取県師範学校の校長が現れ、仙吉たちを非常識だと叱責(しっせき)した。学務課長も現れて脅し文句を並べた。

知事への面会を求める押し問答(もんどう)が1時間近く続いた。

午前1時すぎ、学務課長らを制したのは岡知事だった。岡は後に警視総監になるほどの人物だ。米子中学校の生徒が遠くから面会に来ているからと、わざわざ袴(はかま)をつけて正装で現れた。仙吉らは応接室へ通される。岡はストーブをつけ、菓子を用意させた。

岡喜七郎 【写真提供:鳥取県立公文書館】
岡喜七郎(おか きしちろう) 【写真提供:鳥取県立公文書館】

仙吉らが林校長を米子中学校に留任させるためにやってきたことを、岡はすでに聞いていた。

仙吉らは、話し合いが決裂した場合、米子中学校500名の全校生徒がストライキに入ると涙で訴えた。

林の転任先、鳥取中学校では生徒が寺社に集結して学校を襲撃するなど、暴力の嵐が吹き荒れている。「教員排斥のため」のストライキが頻繁(ひんぱん)に起こっていた。

一方の米子中学校では、敬愛(けいあい)する校長を「引き留めるため」に全校生徒によるストライキも辞さないという。90キロ離れた知事官邸に、代表者を送って話し合いに来ている。

岡は、尊敬の念を込めて仙吉らを「あなた方(がた)」と呼んで、頭を下げた。

「あなた方が先生を敬慕(けいぼ)する念は見上げたものだ。生徒が実に健全に育っていることを見てうれしく思う。鳥取中学は同胞(どうほう)兄弟(きょうだい)ではないか。あなた方の心をもって兄弟を救ってやらねばならぬ。あなた方の校長を少しの間、貸してやってください」

話し合いは午前3時まで続いた。

「兄弟を救う」という目的のため、仙吉らは涙を呑(の)んで、林を送り出すことに同意した。

米子中学校500名の生徒によるストライキは回避(かいひ)された。

翌朝、仙吉らは午前7時頃の列車で米子へ帰った。午前3時まで話し合いが続いていたにもかかわらず、岡は駅まで見送りに出ている。

1912年(明治45年)4月に発行された教育雑誌に、林の人柄と米子中学校での功績を取り上げた寄稿文が掲載されている。仙吉らの行った留任運動が、鳥取県下の新聞で等しく賞賛(しょうさん)された旨(むね)、述べられている。

1912年(明治45年)3月24日、米子中学校は午前9時から卒業式を執り行った。出席者の中には岡知事がいた。岡の配慮があったのだろうか、すでに鳥取中学校へ転任していた林も招かれて式に出席している。

卒業生57名に対して卒業証書が授与された。式では、特別に選ばれた4名だけに奨学賞品が授与されている。4名のうちの1名が仙吉であった。仙吉とともに知事へ直談判に行った杉原徳行にも奨学賞品が授与されている。

仙吉らによる涙の訴えは、実らなかった。林は、どんな思いで「最後」の卒業生を見送ったのだろうか。仙吉はどんな思いで巣立っていったのだろうか。(敬称略)

(⑤へ つづく)

米子中学校第9期の卒業写真(明治45年3月24日の卒業生)【米子市立山陰歴史館所蔵】
1列目右から5人目が林重浩、6人目が岡喜七郎。どの生徒が粟屋仙吉かは不明。
米子中学校第9期の卒業写真(明治45年3月24日の卒業生)【米子市立山陰歴史館所蔵】
1列目右から5人目が林重浩、6人目が岡喜七郎。どの生徒が粟屋仙吉かは不明。
明治末期の山陰線(線路が右にカーブしていく方向が鳥取市方面)『新修米子市史第13巻』より【画像提供:米子市立山陰歴史館】写真の左側あたりに米子中学校があった。粟屋仙吉らは、この山陰線の列車を使って知事官邸に向かった。
明治末期の山陰線(線路が右にカーブしていく方向が鳥取市方面)『新修米子市史第13巻』より【画像提供:米子市立山陰歴史館】写真の左側あたりに米子中学校があった。粟屋仙吉らは、この山陰線の列車を使って知事官邸に向かった。
明治末期の山陰線日野川鉄橋(写真の左奥が鳥取市方面)【米子市立山陰歴史館所蔵】粟屋仙吉らは、この鉄橋を渡って知事官邸に向かった。奥に薄っすらと見える山は「大山」
明治末期の山陰線日野川鉄橋(写真の左奥が鳥取市方面)【米子市立山陰歴史館所蔵】粟屋仙吉らは、この鉄橋を渡って知事官邸に向かった。奥に薄っすらと見える山は「大山」

(注1)
明治44年ごろ、鳥取県に「知事官邸(かんてい)」は実在しました。誤記ではありません。

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