
(〈学業編〉よりつづく)
広島に原爆が投下されたとき、広島市長は粟屋仙吉(あわや せんきち)だった。仙吉は青春時代を鳥取県の米子ですごしている。鳥取県立米子中学校(現在の米子東高等学校)に通った。(以下 米子中学)
学業成績が優秀で、運動にも秀でていた。野球部と柔道部をかけもちして、庭球部にも所属した時期がある。
柔道部の同期には増谷麟(ますたに りん)がいた。東宝映画の常務を務めた人物だ。後に井深大らと共同出資してソニーを設立している。「ソニー育ての親」とも言われている。(設立時は東京通信工業)
ユニバーサルミュージックの前身、日本ポリドールの社長にも就任した。
2期上には福留繫(ふくどめ しげる)がいた。福留は後に海軍に入り、戦艦長門の艦長や、連合艦隊の参謀長をつとめた。仙吉は広島市長在任中も、福留に私的な手紙を送っている。
仙吉は中学生のとき、すでに柔道初段の腕前だった。「粟屋に勝つには粟屋の足を見よ」と言われるほど、足技が得意だった。中学卒業後も柔道を続け、進学した第一高等学校では3段となり大将をつとめた。大学に入っても柔道を続け、最終的には5段まで昇進している。
仙吉は広島市長になる前、警察学校の生徒に相撲の指導をしていたことがある。ある時、幕内まで進んだプロの力士が、生徒に稽古をつけに来た。生徒の稽古が終わった後、この力士と仙吉が相撲をした。仙吉の2連勝だった。中学時代から柔道をやった経験が、強い足腰と腕力を培ったことは間違いがないだろう。

『米子東高等学校柔道部史』より 【画像提供:米子市立山陰歴史館】
仙吉は、野球部では3塁手だった。学内の紅白戦では1塁やショートを守った記録もある。この頃の米子中学は、黒い襟で飾ったユニフォームにストッキングを着用するスタイルだ。仙吉が3年生のころまで、シューズの代わりに地下足袋を履いてプレーしていた。当時は、これがスマートだった。
1910年(明治43年)10月14日、米子中学は杵築中学に遠征して試合をしている。(杵築中学は現在の大社高等学校)
鳥取県の米子中学から島根県の杵築中学までは、70キロメートルほど離れている。現在なら高速道路を使えば1時間半ほどで行ける距離だ。当時は交通手段が限られた。
遠征の状況が、野球部委員長により報告されている。
まず、島根県の宍道まで列車で行った。宍道から馬車2台に分乗して、20キロメートルほど離れた杵築中学に向かう。途中、今市というところで馬を取り換えて杵築中学に到着した。

『米子東高等学校創立九十周年記念誌』より 【画像提供:米子市立山陰歴史館】
杵築中学との試合では、仙吉が大活躍している。仙吉は4番3塁手で出場した。
試合は午前10時40分に始まった。1回表、米子中学の攻撃。ワンアウトランナー3塁で、仙吉が二遊間にヒットを放つ。3塁ランナーが生還して米子中学は得点を上げた。
直後、仙吉は2塁へ盗塁しセーフ。立て続けに3塁へも盗塁した。打席には5番の松田亘之がいた。松田の打球はサードゴロだった。3塁手が1塁へ悪送球する。仙吉が生還して米子中学は追加点を上げた。この回、米子中学は4点を得た。
試合は7対4で米子中学が勝利した。仙吉は8回にもライト前ヒットを打ち、4打数2安打でチームに貢献している。
この試合の前年、仙吉が4年生の時に、米子中学は早稲田大学からコーチを招いている。このとき、最新の戦法を伝授されていた。早稲田大学がアメリカ遠征の時に学んだ「スライディング」や「バント」などだ。当時としては最先端の戦術だった。
杵築中学戦で、米子中学は新戦法のスライディングを多用した。スライディングのたびに、審判は全部アウトの宣告をしている。
試合終了後の帰路、米子中学ナインは、たまたまこの審判と同じ列車に乗り合わせた。選手たちが、なぜアウトなのかと問うと審判は答えた。
「あんな滑り込みは初めてで、訳が分からなかったので全部アウトにした」
仙吉は5年生のときに、スクイズを含めた新戦法の「犠牲バント」を2回成功させている。器用さも備えた選手だった。
学業成績優秀で、部活動でも万能選手だった粟屋仙吉。5年生のときに、米子中学の歴史をゆるがす大事件が起こる。
仙吉はどうするのか。
(敬称略)
(③〈行動力と人望〉へつづく)
(注1)
この記事の冒頭に掲載された粟屋仙吉の顔写真は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に許可をいただいて使用しています。また、ご遺族の承諾を得た上で掲載しています。他の写真も関係先の了承を得て使用しています。転載は固くお断りいたします。
(注2)
インターネット上には、福留繫の「福留」を「ふくとめ」としているサイトがあります。福留繫の生家のあたりでは「ふくどめ」と読まれます。「ど」と濁点がつくのが正しい読み方と思われることから、山陰プレスでは「ふくどめ」を使用しています。
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