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原爆に散った広島市長 粟屋仙吉の青春時代⑤〈被爆80年 人望編〉

2025 8/05
全国/世界 鳥取(Tottori)
2025年8月5日
山陰プレス編集
粟屋仙吉と家族(中央のネクタイの男性が粟屋仙吉)【写真提供:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館】
粟屋仙吉と家族(中央のネクタイの男性が粟屋仙吉)【写真提供:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館】

〈被爆80年 人望編〉

(④〈卒業編〉よりつづく)

校長留任運動のリーダーとなった粟屋仙吉(あわや せんきち)は、1912年(明治45年)3月に鳥取県立米子中学校を卒業した。(現在の米子東高校)

中学校在学中は野球部に所属し、4番三塁手として活躍した。主将でもあった。

中学校を卒業した仙吉は、東京の第一高等学校から東京帝国大学(現在の東京大学)に進んだ。大学卒業後、内務官僚となり大阪府の警察部長や大分県知事などを歴任した後、広島市長となっていく。

中学卒業後も仙吉と米子中学校との交流は続いた。高校進学後も休みになると米子へ帰り、野球部の指導にあたっている。

1917年(大正6年)ごろ、仙吉は大学生になっていた。中学卒業から5年たっているが、相変わらず休暇になり次第、帰省して後輩を熱心に指導している。

仙吉の中学生時代は、ひどい場所で練習をしていた。「グラウンド」と呼ぶに値しない砂場だった。ゴロが転がらず、砂に足が埋もれて、まともに走ることができない。起伏の激しい場所だ。仙吉ら全校生徒が、校長たちとともに整地作業をすることで、使える「グラウンド」に変えていった。

その経験から、仙吉は帰省したときも、後輩のために先頭に立ってグラウンド整備をした。

「さあ、グラウンド直しだ、がっしりいこうぜ」

そう言って、山盛りの土を運搬具に入れた粟屋さんのことが忘れられない、と当時の選手は回想する。

明治45年7月25日、米子中学校野球部員と指導に来ていた卒業生(2列目中央には慶応大学から招いたコーチもいる)(2列目右から1番目が卒業生の粟屋仙吉)
明治45年7月25日、指導に来ていた卒業生と米子中学校野球部員(2列目右から1番目が卒業生の粟屋仙吉。2列目中央には慶応大学から招いたコーチがいる)【米子市立山陰歴史館所蔵】

1932年(昭和7年)夏、全国中等学校野球大会が開催された。現在の全国高等学校野球大会だ。米子中学校は地方予選で見事に優勝して甲子園への切符を手にした。

優勝決定の2日後には夜行列車で甲子園に向かっている。雨で決勝戦が2日間も順延になったため、例年にない過密スケジュールだった。

このとき、仙吉は大阪府の警察部長だった。ナインが大阪へ着くと、仙吉が待ち受けていた。後輩たちが来るからと、多忙な部員たちを歓迎し、何かと便宜を図ってくれた。

この年の秋、昭和天皇が大阪を訪れることになった。警察部長の仙吉は警護責任者であった。責任は重大だ。甲子園大会が終わり、米子に帰郷していた米子中学校ナインは11月1日、大神山神社(おおがみやま(おおがみやまじんじゃ)(おおがみやまじんじゃ)へ参拝をしている。仙吉が重大な任務を全うするようにと、祈願するためだ。

大神山神社は中国地方の最高峰「大山(だいせん)(だいせん)(だいせん)」の中腹に鎮座する。邪気退散(じゃきたいさん)勝運(しょううん)や勝運(しょううん)に「ご利益」があると言われている。米子中学校から大神山神社までは約20キロメートル離れている。

1935年(昭和10年)ごろの記録写真によると、大神山神社は「河原(かわら)」が参道だった。石や岩だらけの渓流を登って本殿までたどり着いていた。

整備された現在の参道を使っても、長い坂道を登らなくては本殿に到着することができない。車を停められる場所から徒歩で徒歩で徒歩で30分はかかる。

急こう配の「河原(かわら)」を登って参拝した時代となると、「登山」といっても過言ではないほど難儀な祈願であっただろう。

粟屋仙吉は、プロ野球選手のように野球で名を成した人物というわけではない。20年も前に卒業したOBのために、現役の野球部員が20キロ離れた神社に祈願しに行くなど、現代では聞いたことがない。いかに仙吉の人望が厚かったかを物語るエピソードである。

昭和7年ごろの大神山神社(奥宮)【鳥取県立博物館所蔵資料】
昭和7年ごろの大神山神社(奥宮)【鳥取県立博物館所蔵資料】

仙吉は昭和天皇警護の大任を果たし、年末、米子に帰省した。この時、米子中学校関係者により歓迎会が行われた。

米子中学校の野球部長だった人物が、歓迎会で交わした仙吉との会話を回想している。昭和天皇が大阪を訪れた際、仙吉は自ら歩いて不審な物が無いか見て回ったという。

部下に指示するだけでは不十分だと考えたのだ。線路の下の小さな土管の中まで覗き込んで見るほどだった。用意周到で細心の注意を払う仙吉には感心した、と野球部長は述べている。

仙吉は大阪府警察部長の後、愛知県総務部長や兵庫県総務部長を経て1937年(昭和12年)に大分県知事となる。この時、関西在住の米子中学校卒業生が、栄転を祝って送別会を開催している。

周りからは温厚(おんこう)で寛容(かんよう)な人柄とみられた仙吉だった。仙吉の人柄を探っていくと次のような言葉が出てくる。

「庶民的で下の者にやさしく、気骨ある信念の人」

「謹厳(きんげん)の中に温情があり、英国紳士をしのばせるものがあった」

「意思が強く不屈な半面、官僚臭さがない人間味あふれたやさしさを持っていた」

昭和12年7月12日、米子中学卒業生による粟屋仙吉の送別会(大分県知事への栄転を祝った)(1列目右から3人目が粟屋仙吉)
『會報 第七號』より 【画像提供:米子市立山陰歴史館】
昭和12年7月12日、米子中学校卒業生による粟屋仙吉の送別会(大分県知事への栄転を祝った)(1列目右から3人目が粟屋仙吉)
『會報 第七號』より 【米子市立山陰歴史館所蔵】

大分県知事の後も様々な要職を歴任して1943年(昭和18年)7月、仙吉は広島市長に就任した。

1945年(昭和20年)8月6日、原爆が投下され、仙吉は広島と運命をともにした。

この日、広島市内の別の場所で、米子中学校の元野球部員が被爆している。

1932年(昭和7年)夏、米子中学校が甲子園に出場した時、3塁を守った亀井正夫だ。昭和天皇が大阪に行幸する際、仙吉が警護の大任を果たすよう大神山神社まで祈願をしに行った学年である。

亀井は米子中学校卒業後、戦争に従軍して帰国し、広島鉄道局に勤務していた。原爆により後頭部を火傷(やけど)して瀕死(ひんし)の重傷を負った。助からないはずの命をとりとめ、平成の時代まで生き抜いている。生き続けられた原因は何だったのか。亀井は手記の中で次のように述べている。

「米子中学時代の野球で鍛えられた肉体と精神が、大いに貢献したものと確信している」

亀井の中学時代、米子中学校野球部の部室には、粟屋仙吉の写真が掲げられていた。部員たちは、20年も前の明治時代に卒業した仙吉を、尊敬すべき目標として心技を磨いたのだ。そして甲子園出場を果たした。

その時に鍛えた肉体と精神が自分を救ったと、亀井は確信を持って語っているのである。

仙吉は原爆により帰らぬ人となった。しかし、受け継がれた仙吉の「魂」は、なお生き残った者を支え続けたのだ。

原爆が投下された広島市は、仙吉が青春時代を過ごした米子から、南西へ約180キロメートルの位置にある。

1945年8月6日午前8時15分ごろ、米子近くのある場所から南西の方角に、見たことのない雲が見えたという証言がある。原爆が投下された時刻だ。キノコのような形をした雲だった。

明日(2025年8月6日)、その日から80年をむかえる。(敬称略)

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