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原爆に散った広島市長 粟屋仙吉の青春時代 ②〈部活動編〉

2025 7/18
全国/世界 鳥取(Tottori)
2025年7月18日
山陰プレス編集
元広島市長の粟屋仙吉【写真提供:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館】
元広島市長の粟屋仙吉 【写真提供:国立広島原爆死没者追悼平和祈念館】

(①〈学業編〉よりつづく)

広島に原爆が投下されたとき、広島市長は粟屋仙吉(あわや・せんきち)だった。仙吉は青春時代を鳥取県の米子ですごしている。鳥取県立米子中学校(現在の米子東高等学校)に通った。(以下 米子中学)

学業成績が優秀で、運動にも秀でていた。野球部と柔道部をかけもちして、庭球部にも所属した時期がある。

柔道部の同期には増谷麟(ますたに・りん)がいた。東宝映画の常務を務めた人物だ。後に井深大らと共同出資してソニーを設立している。「ソニー育ての親」とも言われている。(設立時は東京通信工業)
ユニバーサルミュージックの前身、日本ポリドールの社長にも就任した。

2期上には福留繫(ふくどめ・しげる)がいた。福留は後に海軍に入り、戦艦長門(ながと)の艦長や、連合艦隊の参謀長をつとめた。仙吉は広島市長在任中も、福留に私的な手紙を送っている。

仙吉は中学生のとき、すでに柔道初段の腕前だった。「粟屋に勝つには粟屋の足を見よ」と言われるほど、足技が得意だった。中学卒業後も柔道を続け、進学した第一高等学校では3段となり大将をつとめた。大学に入っても柔道を続け、最終的には5段まで昇進している。

仙吉は広島市長になる前、警察学校の生徒に相撲の指導をしていたことがある。ある時、幕内まで進んだプロの力士(りきし)が、生徒に稽古(けいこ)をつけに来た。生徒の稽古が終わった後、この力士と仙吉が相撲をした。仙吉の2連勝だった。中学時代から柔道をやった経験が、強い足腰と腕力を培(つちか)ったことは間違いがないだろう。

明治45年2月5日柔道部5年生送別記念の写真(2列目1番左が粟屋仙吉、粟屋の右隣りが増谷麟)
明治45年2月5日、米子中学校柔道部5年生送別記念の写真(2列目1番左が粟屋仙吉。粟屋の右隣が増谷麟)
『米子東高等学校柔道部史』より 【画像提供:米子市立山陰歴史館】

仙吉は、野球部では3塁手だった。学内の紅白戦では1塁やショートを守った記録もある。この頃の米子中学は、黒い襟(えり)で飾ったユニフォームにストッキングを着用するスタイルだ。仙吉が3年生のころまで、シューズの代わりに地下足袋(じかたび)を履(は)いてプレーしていた。当時は、これがスマートだった。

1910年(明治43年)10月14日、米子中学は杵築中学に遠征して試合をしている。(杵築中学は現在の大社高等学校)

鳥取県の米子中学から島根県の杵築中学までは、70キロメートルほど離れている。現在なら高速道路を使えば1時間半ほどで行ける距離だ。当時は交通手段が限られた。

遠征の状況が、野球部委員長により報告されている。

まず、島根県の宍道(しんじ)まで列車で行った。宍道)から馬車2台に分乗して、20キロメートルほど離れた杵築中学に向かう。途中、今市というところで馬を取り換えて杵築中学に到着した。

明治42年度の米子中学校野球部選手(後列右から2番目が粟屋仙吉)【米子東高等学校創立九十周年記念誌より】シューズは地下足袋を履いている
明治42年度の米子中学校野球部選手(後列右から2番目が粟屋仙吉)シューズは地下足袋を履いている
『米子東高等学校創立九十周年記念誌』より 【画像提供:米子市立山陰歴史館】

杵築中学との試合では、仙吉が大活躍している。仙吉は4番3塁手で出場した。

試合は午前10時40分に始まった。1回表、米子中学の攻撃。ワンアウトランナー3塁で、仙吉が二遊間にヒットを放(はな)つ。3塁ランナーが生還して米子中学は得点を上げた。

直後、仙吉は2塁へ盗塁しセーフ。立て続けに3塁へも盗塁した。打席には5番の松田亘之がいた。松田の打球はサードゴロだった。3塁手が1塁へ悪送球する。仙吉が生還して米子中学は追加点を上げた。この回、米子中学は4点を得た。

試合は7対4で米子中学が勝利した。仙吉は8回にもライト前ヒットを打ち、4打数2安打でチームに貢献している。

この試合の前年、仙吉が4年生の時に、米子中学は早稲田大学からコーチを招いている。このとき、最新の戦法を伝授されていた。早稲田大学がアメリカ遠征の時に学んだ「スライディング」や「バント」などだ。当時としては最先端の戦術だった。

杵築中学戦で、米子中学は新戦法のスライディングを多用した。スライディングのたびに、審判は全部アウトの宣告をしている。

試合終了後の帰路、米子中学ナインは、たまたまこの審判と同じ列車に乗り合わせた。選手たちが、なぜアウトなのかと問うと審判は答えた。

「あんな滑(すべ)り込(こ)みは初めてで、訳(わけ)が分からなかったので全部アウトにした」

翌年の1911年(明治44年)7月29日、米子中学は杵築中学と再び対戦している。試合は7対7のまま延長戦に突入した。10回の裏、仙吉のサヨナラヒットにより米子中学が8対7で勝利している。

仙吉は5年生のときに、スクイズを含めた新戦法の「犠牲バント」を2回成功させている。勝負強さと器用さの両方を備えた選手だった。

学業成績優秀で、部活動でも万能選手だった粟屋仙吉。5年生のときに、米子中学の歴史をゆるがす大事件が起こる。

仙吉はどうするのか。
(敬称略)


(③〈師弟愛編〉へつづく)

(注)
インターネット上には、福留繫の「福留」を「ふくと(・)め」としているサイトがあります。福留繫の生家のあたりでは「ふくど(・)め」と読まれます。「ど」と濁点(だくてん)がつくのが正しい読み方と思われることから、山陰プレスでは「ふくど(・)め」を使用しています。

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