
鳥取県出身の筒井奏子(つつい・かなこ)さんがトランペットを始めたのは、9歳のときだ。小学校の金管バンドに入ったことがきっかけだった。最初はトロンボーンをやりたかった。トロンボーンのオーディションに受からなくてトランペットを担当した。中学高校とも吹奏楽部に所属して腕を磨いた。いま愛知県を拠点に、ふたつの顔を持って活躍している。
高校卒業後、プロのトランペット奏者になりたくて愛知県立芸術大学の音楽学部に進学した。大学の卒業が迫ったとき、筒井さんは人生の岐路に立った。
まだプロとしてひとり立ちできるだけの力が無かった。プロをめざす人の多くは、海外へ留学するかフリーランスで演奏する道を選ぶ。経済的に困難だった筒井さんは、大学の学務部に就職した。大学の演奏会を運営する仕事だった。
教授に言われるがまま応募した。運営する側をめざしていたわけではない。生活の基盤を整えるため、苦渋の決断だった。
運営に携わった最初の公演は、大学の体育館で開催された芸術鑑賞会だった。愛知県立芸術大学の卒業生が、学生に向けてサックス四重奏を行うコンサートだ。体育館の後ろから見ていて涙があふれた。自分が演奏する側ではないことに悔しさを感じた。
3年間勤務した後、公共の文化ホールに移籍してイベントの制作を担当することになった。大学で運営に携わったのは、職員や学生のクラシックコンサートがほとんどだった。ホールでは落語やジャズの公演、絵画の展示にもかかわった。
大学の外にはこんなイベントがあるのかと驚いた。音楽以外の公演も勉強したことで興味の幅が広がった。多くのジャンルに携わり仕事が楽しくなっていった。

イベントを重ねるごとに、筒井さんの気持ちに少しずつ変化が表れる。
イベント業界で働く人々は、それぞれの部門で責任を持って役目をこなすプロフェッショナルだった。筒井さんは、その一員でありたいと思うようになっていった。今ではチームの一員としてイベントの成功に力を尽くし、やりがいと誇りを持って働いている。
筒井さんは、プロのトランペット奏者になる夢をあきらめたわけではなかった。イベント運営の仕事にやりがいを感じ始めるのと時を同じくして、演奏の仕事も入り始めた。
いまソロの演奏家として活動しながら、UNIT7(ユニットセブン)というジャズバンドにも所属している。有名なサックス奏者とも共演した。
2025年12月16日にはUNIT7のメンバーとともに、鳥取県米子市の「米子コンベンションセンター」でライブを行う。UNIT7は来年2026年に、結成15周年をむかえる。

コロナ禍が始まる直前の2019年からは、現在のイベント会社で勤務を始めた。サンリオのミュージカルや大黒摩季さんのコンサートなど、筒井さんが運営を手がけたイベントは多岐にわたる。
コロナ禍では予定していたイベントの中止や延期が続いた。映像配信などの工夫をしながら乗り越えた。
映像配信のノウハウがなかったため、インターネット回線を会場にひけるのかを調べるところからはじまった。オンラインチケットの知識を身につけ、著作権についても学んだ。映像配信は、日ごろ会場に来ない人にイベントを知ってもらうきっかけになった。
自分がプロの演奏家だから出演者の気持ちがわかる。本番直前に話しかけないでほしいとか、譜面台の高さが違うなど具体的だ。
イベントの運営をやっていると、公演ができあがる過程やスタッフの尽力が分かる。それが自分の演奏にもいきる。運営を通じて観客から正直な感想を直接聞くことができるので、トランペット奏者として演奏する際の参考になる。イベント運営とトランペットの演奏は互いにリンクしているのだ。

筒井さんには演奏家とイベントプロデューサーという2つの顔がある。どちらもプロ意識を持って、おろそかにすることがない、大切な二本柱だ。
片方の手で「演奏家」という音を奏でながら、もう一方の手ではイベントプロデューサーという別の旋律を紡いでいく。
二刀流でも二足のわらじでもない、二奏流(にそうりゅう)だ。筒井さんにとっては人生そのものが、ひとつの「演奏」なのだ。
大学生のときに先生から「闘うな」と言われたことがある。音楽や自分と闘いすぎるなという意味だと筒井さんは解釈した。何かに煮詰まりそうになると、先生の言葉を思い出して闘わないように心がけている。
「楽しく演奏する事が結果的に、演奏を聴いてくださる方にとって少しだけ特別な時間になればと思っています」
筒井さんの言葉だ。

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