センバツ唯一 決勝戦のサヨナラ本塁打 65年の友情はこの時から始まった

サヨナラ本塁打を打った山口さんを迎えて喜ぶ、高松商業ナイン(1960年 第32回選抜高校野球決勝戦)(写真提供:吹野勝さん)
サヨナラ本塁打を打った山口冨士雄さんを迎えて喜ぶ、高松商業ナイン(1960年 第32回選抜高校野球 決勝戦)(写真提供:吹野勝さん)

2025年3月22日、春の選抜高校野球(以下 センバツ)で高松商業と早稲田実業が対戦した。この日、甲子園球場3塁側アルプス席に2人の男性がいた。山口冨士雄(やまぐち ふじお)さんと吹野勝(ふきの まさる)さんだ。

山口さんは香川県立高松商業高校出身、吹野さんは鳥取県立米子東高校の出身だ。山口さんは香川から甲子園にやって来た。吹野さんは大阪からやって来た。高松商業か米子東が甲子園に出場すると、どちらの高校であっても必ず2人一緒に応援することを続けている。

高松商業が出場すると吹野さんが大阪から駆けつける。米子東が出場すると山口さんが香川から駆けつける。

甲子園球場で一緒に高松商業を応援する、山口冨士夫さん(左)と吹野勝さん(右)=2025年3月22日
甲子園球場で一緒に高松商業を応援する、山口冨士雄さん(左)と吹野勝さん(右)=2025年3月22日

2人が初めて出会ったのは、1960年4月8日だ。第32回センバツの決勝戦であった。この日、高松商業と米子東が対戦した。日本一をかけて戦う、それぞれのチームの主将として相まみえた。それから今年で65年を迎える。

1960年の決勝は息詰まる投手戦だった。4回表、米子東が2つの四死球とタイムリー2塁打などで先制。その裏、高松商業がライト前ヒットと送りバントなどでランナーを3塁に進め、捕手のパスボールで同点に追いついた。

米子東の宮本洋二郎投手(早大―巨人)は、この日絶好調だった。1対1の同点で9回裏、高松商業の攻撃を迎える。宮本投手の調子から、多くの人は、このまま延長戦に突入すると予想していた。打席には高松商業の3番、山口さんがいた。1塁の守備位置には米子東の吹野さんがいる。

ワンボールツーストライクから、宮本投手がインコースを狙って投げたシュートが真ん中寄りへ入る。山口さんがバットを振ると打球はレフトラッキーゾーンへ吸いこまれた。

大会第1号が決勝戦のサヨナラ本塁打という、高校野球史に残る劇的な幕切れであった。地区大会から完璧な投球を続けてきた宮本投手にとって、唯一の失投であった。センバツ決勝戦のサヨナラ本塁打は後にも先にも、この1本しかない。

山口冨士夫さんが打った、第32回選抜高校野球決勝戦のホームランボール(高松商業高等学校 寄贈)(甲子園歴史館に展示)
山口冨士雄さんが打った、第32回選抜高校野球決勝戦のホームランボール(高松商業高等学校 寄贈)(甲子園歴史館に展示)

高校卒業後、山口さんは立教大学に進む。その後、中退してプロ野球の阪急ブレーブスなどで活躍する。吹野さんは高校卒業と同時に野球をやめ、会社員などを経て起業した。会社経営者の道を歩むことになったのだ。

山口さんと吹野さんは、高校生の時、特に会話を交わしたわけではない。先攻後攻を決めるジャンケンの時に挨拶をしたていどだ。

高校卒業後、年賀状のやりとりはあったものの、会って話すようなことは無かった。

まったく別々の道を歩んだ2人は、あることがきっかけで再会を果たすこととなる。

米子東の3塁手だった松本勝彦さんが高松で仕事をすることになった。この時、松本さんが山口さんと偶然出くわしたのだ。その後、松本さんの仲介により山口さんと吹野さんは大阪府内で数十年ぶりに再会することとなった。

再会の時、山口さんも吹野さんも、お互いに昔からの友人であるかのような感覚を持った。この日を境に、2人は自然な形で親友となっていった。

ゴルフが好きな2人は交互に高松や米子、大阪に出向きプレーをする。毎年年末になると吹野さんのもとには、山口さんから香川名物の「うどん」が送られてくる。吹野さんは鳥取名物の「二十世紀梨」を送る。

2人が再会してから交流は30年以上途切れたことがない。

決勝戦終了後の閉会式で、国旗降納をする高松商業ナインと米子東ナイン(1960年 第32回選抜高校野球)
決勝戦終了後の閉会式で、国旗降納をする高松商業ナインと米子東ナイン(1960年 第32回選抜高校野球)(写真提供:吹野勝さん)

吹野さんが、ある会合に山口さんを招待したことがある。「高松商業野球部と米子東野球部の懇親会のようなものだ」と山口さんは聞かされていた。喜んで参加すると答えた山口さん。会場に行ってみると、まったく予想しなかった光景を目にする。

そこは大阪市内のホテルだった。

1960年センバツ決勝戦の写真がずらりと並び、雰囲気がおかしい。出席者は100人以上いる。見渡しても高松商業のOBは1人もいない。米子東側も野球部OBは数えるほどだ。野球部員ではなかった者ばかりで、年齢も様々だ。山口さんの席は最前列にあり、他の出席者のほうを向く形で用意されていた。主賓の席だった。

この会合は関西米城会という。米子東を卒業した、あらゆる学年が集う同窓会だったのだ。会場にいたのは1960年当時、米子東の在校生や卒業生だった者。そして、テレビやラジオにかじりついて決勝戦に熱中した、小学生や中学生だった者たちだ。

関西米城会の日、米子東にとって山口さんは母校を倒した憎き相手ではなかった。出席者にとって山口さんは、青春の1ページに刻まれた憧れの人であった。山口さんは米子東高校のヒーローとして迎えられたのだ。その時のことを山口さんは「恥ずかしかった」と振り返る。そして「(吹野さんに)だまされた」と笑いながら続けた。

今では、出身校を聞かれると「半分は高松商業だが、あとの半分は米子東だ」と答える。

「米子は第二の故郷」と笑顔で語る。

2025年4月6日ごろまで、甲子園球場の横にある甲子園歴史館で企画展が開催されている。「センバツ高校野球企画展2025印象的な本塁打特集」と題して、高校野球史に残る印象的な本塁打を取り上げている。

ここには山口さんが打ったサヨナラ本塁打のボールが展示されている。近くには3月29日ごろまで、センバツ優勝旗と準優勝旗の実物が並べられている。

センバツの閉会式終了後、優勝校と準優勝校は場内を一周する。一周する時、山口さんは「優勝旗が重かった」と当時を振り返る。吹野さんも「準優勝旗が重かった」と同じことを述べていた。

握手をするように並べられた2つの旗は、山口さんと吹野さんの友情を象徴するかのようであった。

甲子園歴史館に展示された、選抜高校野球の優勝旗(左)と準優勝旗(右)
甲子園歴史館に展示された、選抜高校野球の優勝旗(左)と準優勝旗(右)(2025年3月29日ごろまで展示)

※ 山口冨士雄さんの「冨」は、お名前としては「わかんむり」の「冨」が正式な漢字です。インターネット上には「うかんむり」の「富」が散見されます。山陰プレスでは山口さん、ご本人に確認のうえ「冨」を使用しています。