
(前編よりつづく)
チェロの演奏家をめざした小野江良太(おのえ・りょうた)さんは、将来、演奏だけでやっていくことに限界を感じていた。小野江さんには、中学生のころから「編曲」を行ってきた経験もある。音楽大学を卒業したあと、編曲の能力をいかして起業することとした。
音楽大学を卒業して、すぐに起業する人はあまりいない。情報が少ないなか試行錯誤により困難を乗り越えて、2016年8月に「小野江音楽工房」を設立した。
チェロの演奏を学んできた身として、譜面の見やすさや読みやすさが重要だと小野江さんは感じていた。
譜面には市販されているものと、されていないものがある。市販されているものが正確な譜面かというと、演奏家が見ると違うことのほうが多い。
メロディがちがう、伴奏もちがう、音も良くない。演奏家として活動する中で、しばしば経験したことだ。
そもそも譜面がない曲は意外と多い。代表的なものとして映画音楽やゲーム音楽が挙げられる。
音源をつくるときや録音するときには、譜面があるかもしれない。しかし、その譜面は世の中には出回っていない。残っていないことも多い。
かつては生演奏による録音が主流だった。時代の流れとともに、映画音楽やゲーム音楽はコンピューターでつくるものが増えた。最近はデジタルでいきなり曲ができてしまう。
曲づくりがアナログからデジタルに変わったことで、譜面がなくても録音ができるようになった。よけいに譜面が世の中に出回らなくなった。小野江さんは、そこに目をつけた。
譜面制作は、編曲のノウハウがいかせる近接領域にある。小野江さんは「譜面製作」を事業内容に加えようと考えた。
映画音楽の譜面制作は、基本的にサウンドトラックを聞きながら行う。しかし、すべての映画音楽にサウンドトラックがあるわけではない。ない場合は映画そのものを観ながら、音楽の部分だけを聞き取って考える。耳で聞いた音を譜面に起こしていく。
譜面が売られていない曲を、任意の編成に置き換えて編曲することもある。
映画音楽の制作は、音を重ねていくもので楽器の制約がない。トランペット100本を想定しての曲づくりでも可能だ。
しかし一般の人が演奏する場合は、楽器の制約がある。バンドやオーケストラによって楽器の編成はさまざまだからだ。
例えば弦楽四重奏のような小規模4人編成もある。ヴァイオリン2名、ヴィオラ1名、チェロ1名といった具合だ。同じ曲でも、さまざまな編成で作ってほしいという需要がある。
「編曲」でスタートを切った小野江音楽工房では、いまでは「譜面制作」が事業の核となった。
ヴィルヘルム・ケンプという作曲家がいる。20世紀を代表するドイツの著名なピアニストだ。市販されていないケンプの自筆譜(じひつふ)があった。
「自筆譜」は作曲家が自分で書いた手書きの譜面だ。手書きなので、どの音が書かれているのか分かりにくい。読みやすいように譜面に起こしてほしいという依頼が、研究家からきたことがある。
小野江さんが譜面を起こしたケンプの曲は、ドイツのオーケストラで演奏された。小野江さんが譜面を起こすことがなかったら、幻の曲をドイツの人が聴くことはなかったかもしれない。
イギリスで出版された譜面の編集にも携わったことがある。小野江さんが譜面を起こした別の曲は中国でも演奏された。
小野江音楽工房は、2026年8月に設立10周年をむかえる。
小野江さんは10年間を振り返る。
「想像よりもうまくいっています。もっと売れないと予想していました。小さい仕事が大きい仕事に結びついて10年やってきました」
世の中に出回っている譜面は、演奏家から見て質が良くないものが多い。違いを指摘できる人が少ない。プロからアマチュアまでさまざまで、レベルの差が激しい。明らかに音がちがうことがある。
そのまま演奏したら、オリジナルから大きく離れたちがう曲になってしまう。元の曲を正しくとらえていないことが多い。
自分で直せる演奏家もいるが、直せない初学者は、こういうものかと思ってしまって文化的にも成長しない。
譜面は音楽でいうところの「ことば」だと小野江さんはいう。耳で聞いたものを「ことば」で表現するのが譜面制作だ。
今後は、譜面を書ける人を増やして、高品質のものを量産することをめざす。
量産できれば、映画音楽やゲーム音楽が演奏される機会が増える。熱心なファン以外にもクラシック楽器の演奏を楽しめる一助となる。文化貢献や社会貢献にもなるだろう。
(注)小野江音楽工房では、著作権のある曲については手続きを踏んだうえで譜面制作を行っています。
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