東日本大震災から13年を迎える3月11日、鳥取市出身のシンガーソングライターhactoさん=埼玉県在住=が、島根県江津市で追悼ライブを行う。
地元ゆかりの楽曲作成や、長年の福島通いで知られるhactoさん。
しかしそもそもなぜ、埼玉県に住む鳥取市出身のシンガーが東北の被災地に想いを込めて島根県で歌うのか?
震災13年を迎える11日を前に本人にインタビューを行った。
hactoさんは18歳で千葉県の大学に進学。家族の反対を押し切って故郷を離れたといい、学費や生活費を稼ぎながら暮らす苦学生だった。
在学中に音楽に出会い、卒業後もロックバンドのボーカルを務めていたが「これで生きていくのは無理だな」と感じ、一時は音楽をやめることも考えた。
そんなとき、心のどこかで故郷が恋しかった。しかし「このままでは鳥取に帰れない」と思い、決意を新たに30代半ばでシンガーソングライターとなった。
「作詞作曲ができて、歌が歌えるから」という理由でシンガーソングライターになったが、歌うべき自分の言葉が定まらない日々が続いていた。
そんなある日、ライブのリハーサルのためスタジオ入りの順番を待ちながら公園で待機していると、空が揺れたかのように感じた。立っていられないほどの大きな地震。
幸い被害は受けなかったものの、当時から埼玉県に住んでいたhactoさんも東日本大震災で大きな揺れを感じた一人だった。
ただごとではないと直感した。どうしたら良いかもわからず、震災翌日の12日にはただただJR川口駅の駅前で歌を歌っていたことだけを覚えているという。
東京電力福島第一原発の事故が起き、首都圏では電力が不足した。時間ごとに停電が起きる計画停電が実施され、節電も呼びかけられた。
ライブを行うにも照明を抑え、暗い中で音響を使わずに歌った。自分がしていることへの違和感が強くなり、とにかく被災地に行くしかない、と決めた。
5月には被災地でのアーティストの募集を見つけ、秋には福島県相馬市のステージに立った。被災した人にどんな言葉をかければいいかわからず、ただ歌って帰った。
被災地を訪ねても自分の中の違和感は解消されなかったが、帰りのバスの車内で翌月のバスを予約した。
それ以来、毎月福島に通うようになり、それは今も続いている。
今、相馬市だけでなく福島中に会えば気軽に話せる友人ができた。最初の訪問を覚えていた人からは「お前、あの時何もしゃべらなかったよな」なんて言われたこともある。
あの時の「違和感」は解消されたのだろうか?
「違和感とは結局、なんのために歌うのかわからない、音楽は役に立たない、という無力感だったんです」。
今は、福島を訪ねれば「おかえりなさい」、見送るときに「いってらっしゃい」といってくれる人がいる。そんな出会いを得て、自分自身が救われた。
なんのために歌うのか。今はその答えも明確になった。「困難に立ち向かう人の背中を少しでもそっと押せる歌手、アーティストでありたい。背中から支える、そんな歌を歌っていきたい」。
ハードなロックを歌っていたとは思えないやわらかな弾き語りが今のhactoさんのシンガーとしての持ち味でもある。
そんなhactoさんが福島の人から学んだこと、そしてそれを踏まえて多くの人に伝えたいことは「家族を大事に、故郷を大事に」というメッセージだ。
後編へ続く。
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